プラトンは理性によってのみ捉えられる完全な性質を持ったものをイデアと呼び、アリストテレスはイデアに相当するものは形相と言ったそうですが、両者の違いがまったく分かりません。
分かりやすく教えてください!!
プラトンが語ったイデアというものは、事物の本質についてプラトン流に捉えたものですが、それは事物の本質という点に着目しているため、その一面において固定的にしか捉えられないものとなっていました。
パソコンにはパソコンのイデアが、美には美のイデアがそれぞれあたかも一対一対応のように存在すると解されていたのです。
この考え方それ自体は、事物について内在する本質の重要性を説く点で大きな意義のある考え方ですが、ただ一方で、一つ難しい問題をはらんでいました。
それは変化と運動について、このままでは語れないという欠点です。
アリストテレスは、この世に移ろい行くことなく、変化することなく存在し続ける「もの」を『ウーシア』と呼びました。
これは「実体」とも言うべきものですが、実物が存在する原理の言葉として使われるとき、これを「形相」とも呼び変えています。
話をここで終えてしまえば、それは質問者の方がおっしゃられるとおり、『ウーシア=実体=形相』=『イデア』と捉えてもあながち間違いとはいえません。
ただ、アリストレテスは、『ウーシア』というものは、二つの形態からなっている、一つは潜勢態(デュナミス)であり、もう一つが現実態(エネルゲイア)であると説くのです。
そして、デュナミスがエネルゲイアへと成長すること、完全なる形へと発展すること、ここに現実世界における変化と運動が見て取れると考えたのです。
例えば、ひまわりの種をまいて後、それが花を咲かせたとしたら、種から花への変化は、ひまわりのウーシアが種というデュナミスから花というエネルゲイアへと完全なる成長を遂げた、とそう考えるのです。
プラトンのイデアは固定一面的、アリストテレスのウーシア(形相)は能動二面的とでもいうような違いがあると言えます。
ちょっと正確でないかもしれませんが、確かプラトンのイデアとはいわゆる“抽象概念”そのものを指し、アリストテレスのイデアとは”ミミシズム”=模写・模倣の原型を指しているかと。
この2つの概念は後の西洋美学理論に発展し、例えば、真っ白のキャンバスの絵はプラトンのイデア的”美”の表現であり、ルネサンス絵画はアリストテレスのイデア的”美”の表現の典型例です。
No comments:
Post a Comment